きょうへいくんの大相撲日記

幼少期より大相撲を愛し、勝手に語ります。

375. 横綱とはなんぞや?

本日、第73代横綱照ノ富士が誕生した。

令和初、平成生まれ初の横綱誕生となった。

そして一度大関から陥落しての横綱昇進は三重ノ海以来2人目、序二段まで陥落しての横綱昇進は史上初であり、これに関しては今後も誕生することがないと言えるのではないだろうか。

記録ずくめのめでたい昇進であり、照ノ富士の今後の活躍にも期待である。

中には『膝が悪化して短命なのではないか』という声も挙がっているが、その一方で周囲との力量差を考えると優勝回数を重ねていく可能性も大いに秘められている。

そしてその横綱だが、今場所は白鵬が長期休場明けの中、全勝優勝で見事復活を遂げたが、14日目の立ち合い、張り手、かち上げ等横綱の振る舞いとして如何なものかと物議を醸している。

確かにその気持ちはわかる。
勝利に対する執念は凄まじいが、千秋楽の立ち合いをずらすことも含め『汚い相撲』と言われたらその通りだとは思う。

『ルール上は問題ない』と言われても相手が失神する程の張り手を何度も繰り返し、また仮に1日にそのような取り組みが何番も続くことがあればさすがに誰しもが快く思わないだろう。

物事には限度というものがあるということだが、しかしこのようにルールを曖昧にしていてはいつまで経っても解決する問題でもないだろう。

『過去の横綱はそんなことをしなかった』と切り出しても、その程度で解決するならば苦労はしない(しかも厳密に言えば歴代の横綱も張り差しは見受けられる)。

本当に問題視するならば早急にルールの改革をするべきだと思う。

そして今回私が疑問を覚えたのは14日目の白鵬の立ち合いである。

これに関して私自身『横綱がそんな立ち合いするなんて』という思いには至らなかった。

『勝手に語る』の方でも記載しているが、そんなことをしなくても勝てるのに、単純にそこまでする必要があったのかと疑問だけである。

勝利への執念は凄まじいが、下手をすれば悪手となるのではないかという思いもあった。

しかしこの相撲に関しても『横綱なのに』と批判する声が多数挙がっていた。

そこで1つの疑問が浮き上がる。
それは『小兵力士』である。

例を挙げると今場所の7日目の白鵬ー翔猿の取り組みである。

翔猿は白鵬と距離を置き、その中で勝機を見出だす展開を狙っていた。

結果として何をしたいのかいまいちわからなくなってしまったが、それでもこの一番を見て多くのファンが『翔猿は考えて相撲を取った』とそこまで批判的な声は挙がっていなかったと思う。

話は14日目の白鵬の立ち合いに戻るが、14日目の白鵬の立ち合いに対して八角理事長が『普通奇襲は弱いものがやるもの』と苦言を呈していた。

確かにそうかもしれないが、では7日目で翔猿が仮に白鵬に勝利したとして、その後もそういった奇襲で上位に定着したとする。

そのままの相撲内容で大関横綱へ昇進を果たしたとき、翔猿はこのような奇襲戦法をきっぱり止めなければならないのか?

そしてこれは現在幕内下位~十両で相撲を取っている照強、石浦、炎鵬にも言えることである。

彼らは頻繁に変化するし、足取り等の奇襲も積極的に行っているが、それに対して苦言を呈するものはいない。
むしろ称賛されている。

しかしこの相撲内容のまま横綱昇進を果たしたらどうなるのか?
それは批判の対象となるのか。
それとも変わらず称賛されるのか。

これに対して『小兵力士は何をしても許される』という声も挙がると思う。

しかし私から言わせてもらえばこれこそ実に『ご都合主義』と言えるのではないだろうか。

そして結局のところ、そのような奇襲を主体にしても横綱に昇進することは出来ないという考え方を頭の片隅に残しているのだと思う。

悪い言い換えをすれば、小兵力士は見せ物であり、横綱へ昇進できるわけがないという考え方である。

偏った考え方に思われるかもしれないが、実際にこの考えを持っている方は多からず少なからず存在すると思う。

私自身、仮に奇襲を主体に横綱昇進を果たしたとしても、その力士に対して本来あるべき横綱相撲を取ってほしいとは思わない。

その力士の個性を失ってしまっては魅力も力量も全て損なわれるからである。

話が二転三転するが、そもそも昨今は『横綱相撲の認識』もかなり誤っていると思う。

例えば今場所の照ノ富士の相撲を見て横綱相撲かと問われると、私の答えは『ノー』である。

今場所の照ノ富士は間違いなく強かった。
そして横綱昇進に関しても何一つ文句はない。
力量はすでに横綱レベルだった。
しかし横綱相撲ではない。

答えは簡単だ。
本来の横綱相撲とは、後の先で相手に攻撃させるだけ攻撃させて、その後自分の型になって攻めるというものである。

今場所の照ノ富士は左前ミツ速攻という相撲があった。
この相撲内容は完璧の一言であるが横綱相撲ではない。

過去に遡れば、最強横綱と称される事の多い北の湖千代の富士横綱相撲かと問われたらそうとは言えない。

結局のところそれぞれの横綱像が異なるため、曖昧な部分も多いのである。

そしてそれは『品格』においてもそうである。

『品格の良い横綱とは?』と質問されたとき、何名かの四股名が挙がると思うが、『どのような部分が良かったのか?』と問われると抽象的な答えが関の山だと思う。

またこの品格に関しても明確な基準など存在するわけもなく、引退してから評価が一転する場合も多い。

例えば北の湖だが、現役時代は『憎たらしいほど強い』『勝つ度嫌われた』とされており、勝負がついた後も相手に手を差し伸べないことで有名だった。

これに関しては『敗者に手を差し伸べるのは失礼』という北の湖の美学が存在したが、現役当時、リアルタイムでそれを感じ取れたファンなど存在しなかったのではないだろうか。

そして若貴兄弟の最大のライバル曙は、常に若貴のヒールという立ち位置にあり、勝ってため息をつかれ、曙が優勝しても表彰式はファンが帰ってしまうというぞんざいな扱いを受けてきた。

しかし引退してから『日本人よりも日本人らしい横綱だった』と取って付けたかのような評価のされ方だった。

そのためファンそれぞれの横綱像を抱いているため『横綱として』『横綱なのに』『横綱の品格』と抽象的なことを言われても中々理解できないのである。

ではなぜ白鵬は叩かれるのか?

まず張り手、かち上げに関しては、上記の通りルール上は問題ないと言っても、痛めつけられる対戦相手のことも考えると『やり過ぎだ』という点から納得は出来るだろう。

しかし14日目の立ち合いに関しては、何度も言うように私個人の考えとしてはそこまで批判されるような事ではないと思う。

歴代でも立ち合い変化する横綱は存在したし、変わり気味に廻しを狙う横綱も存在した。

そして今回は変化と概念は異なるが、奇襲という点では同類だろう。

批判対象として挙げられる理由は『強い白鵬を知っているから』ではないだろうか。

そして『不甲斐ない周囲の力士への不満の矛先を白鵬の相撲内容にぶつけるしかない』ということも挙げられるのではないだろうか。

相撲ファンの大半は白鵬の全盛期を知っているだろう。
立ち合い低く鋭く踏み込み、左前ミツ浅い位置を引く。
そして廻しを切る技術、寄り、投げの技術は一級品であった。

そんな白鵬が変な立ち合いをしている。
そんなことをしなくても勝てるのに。
そういう思いは強いだろう。

そして不甲斐ない周囲の力士を叩く前に、先に目を引く白鵬の相撲内容を叩くのではないだろうか。

大相撲には長い歴史がある。
その中には引き継いでいかなければならない伝統も多く存在するだろう。

しかしその一方で無理に引き継ぐ必要のないものも存在する。

最たる例は『かわいがり』『土俵の女人禁制』だろう。

相撲内容に関しても昔と今では大きな変化を遂げている。

そもそも体型に大きな変化をもたらせているのだから無理もない。

過度な張り手、かち上げに関しては見直しが必要であるが、奇襲に関してはある程度寛大な心を持つ必要があると思う。

相撲内容も変化を遂げているのだ。
時代の変化に伴う移り変わり全てが悪いことばかりではない。

それは無差別級という全力士を平等に見るという観点から考えても。

話が二転三転してしまったが、答えのない題に関しては論争が尽きない。

これを機に協会は修正するべき点、明確化すべき点に関しては論議する必要があるだろう。

何せ常々後手に回っているのだから。