きょうへいくんの大相撲日記

幼少期より大相撲を愛し、勝手に語ります。

49. 『14勝以上』の三賞受賞に関して

明日で平成も終わりを迎える。

その平成の最終日が大相撲では『平成最後の番付発表』となっている。

明日の投稿に備え、平成の大相撲の記録を整理していると、ふと先場所の『逸ノ城』について考えていた。

逸ノ城は先場所14勝を果たし、白鵬に次ぐ成績を収めた。

成績などに関してはこちらでも少し記載したが、今回気になったのが『三賞に関して』である。

関脇以下で14勝を果たしたのだから、三賞受賞自体は当たり前なのだが、これだけ大勝ちしたにも関わらず、逸ノ城三賞は1つに留まり、ダブル受賞はならなかった。

優勝した白鵬と対戦せず殊勲賞を受賞するならば、もう一つの敢闘賞を受賞させても良かったのではないかと思わせるものである。

ちなみにこの場所の敢闘賞は12勝3敗で前頭7枚目の碧山であった。

下位の力士が大勝ちして敢闘賞を受賞するの自体は何ら不思議でないが、逸ノ城の活躍と比較すると、やや陰りが見える。

三賞は同賞が複数名いても構わないし、1力士が複数受賞も問題ない。

過去には5力士(大受、大錦、貴花田、出島、琴光喜)が『トリプル受賞』を果たしているし、1994年春場所には最大5力士が三賞受賞を果たしている。

横綱大関などの昇進問題に隠れがちだが、三賞受賞の基準もやや曖昧な部分は多い。

三賞の1つである『殊勲賞』は、上位を多く倒して勝ち越した力士、もしくは優勝力士に土をつけた力士が受賞するものだが、平成4年夏場所の曙は当時関脇に在位しており、自分より番付の高い力士に勝利せず殊勲賞を受賞した。

とある場所では基準は甘めで、とある場所では基準が厳しい場合もあり、2018年秋場所では『史上初の三賞受賞なし』という事態に陥った。

そして『力士への期待値』『ベテランへのご褒美』などの感情移入が含まれる場合も存在するため、受賞基準にも大きなばらつきが存在する。

話を逸ノ城に戻すが、春場所の活躍は三賞ダブル受賞に値するものと言っても過言ではないと考える。

そこで今回『14勝以上を果たした力士の三賞受賞』に関して以下の表にまとめた。

ちなみに年6場所制が定着した1958年以降の力士を対象とする。

年代 四股名 番付 三賞 横綱大関総人数 横綱大関休場・引退 横綱大関対戦人数
1962年夏 栃ノ海 関脇 敢・技 横綱2、大関3 大関1 横綱2、大関2
1964年初 清國 前頭13枚目 横綱2、大関5 大関1(途中休場) 対戦なし
1964年名 富士錦○ 前頭9枚目 敢・技 横綱3、大関4 横綱2(内1名途中休場) 対戦なし
1974年初 北の湖 関脇 横綱3、大関3 横綱2(途中休場) 横綱1、大関3
1976年秋 魁傑○ 前頭4枚目 横綱2、大関3 なし 横綱1、大関3(横綱1名とは同部屋)
1981年初 千代の富士 関脇 殊・技 横綱3、大関2 大関1(途中引退) 横綱3、大関1
1983年初 朝潮 関脇 殊・技 横綱3、大関3 横綱2(途中休場&引退) 横綱3、大関3
1983年夏 北天佑 関脇 殊・技 横綱2、大関4 横綱2 大関4
1991年名 琴富士○ 前頭13枚目 横綱2、大関2 なし 横綱1、大関2
1992年初 貴花田 前頭2枚目 敢・殊・技 横綱2、大関2 横綱2(全休&引退) 大関2
1992年秋 貴花田 小結 大関3 なし 大関3
1993年春 若花田○ 小結 殊・技 横綱1、大関2 なし 横綱1、大関2
1998年九 琴錦 前頭12枚目 殊・技 横綱3、大関2 横綱1 横綱2、大関1
2006年夏 雅山 関脇 殊・技 横綱1、大関5 横綱1、大関1(ともに途中休場) 大関4
2010年春 把瑠都 関脇 敢・技 横綱1、大関4 なし 横綱1、大関4
2010年九 豊ノ島 前頭9枚目 敢・技 横綱1、大関4 大関1(途中休場) 大関2
2018年初 栃ノ心 前頭3枚目 殊・技 横綱3、大関2 横綱2(途中休場) 横綱1、大関2
2019年春 逸ノ城 前頭4枚目 横綱2、大関3 なし 大関3

四股名は当時の四股名

○は優勝、△は同点

 

1958年以降、関脇以下で14勝(全勝は皆無)を果たした力士は『18名』である。

そのうち三賞1つだけの受賞者は『6名』である。

まず最初の複数受賞にならなかった犠牲者(?)は『清國』である。

清國はこの場所が幕内2場所目であり、初日から14戦全勝で千秋楽を迎え、千秋楽に大豪に敗れ、全勝を果たした横綱 大鵬に優勝を奪われた。

ちなみにもし清國が千秋楽勝利していれば、大相撲史上初となる『全勝同士の優勝決定戦』へ突入するところだった

これは現在もみられず、また14日目終えた時点で14戦全勝の力士が複数名存在し、千秋楽に別の力士と割が組まれているというケースすらない。

話が少し逸れたが清國の場合、『上位対戦が全くなかった』という点で話は片付きやすいのではないだろうか。

と思いきや、その3場所後に『富士錦』が上位と全く対戦せずに三賞ダブル受賞を果たしている。しかも優勝まで果たしているから至れり尽くせりである。

そして次が『北の湖』だが、こちらは『上位総当りの中優勝を果たした』にも関わらず、三賞は1つに留まった。

当時の期待度なども考慮すると、不運としか言い様がない結果である。

次の『魁傑』も北の湖同様、上位総当たりの中優勝を果たして三賞は1つに留まるが、これは『すでに優勝経験者』『元大関』という説明で何となく話はつくだろう。

15年ほど期間が空き、4人目の『琴富士』は番付下位で大勝ちして、終盤戦に上位と組まれた中見事優勝を果たしたが、三賞は1つに留まった。

この場所は出場していた2横綱が一桁勝利に終わる上位の不甲斐ない場所となり、それが影響してしまった恐れがある(余談だが、この場所千秋楽結びの一番である北勝海旭富士が日本出身力士横綱同士の最後の対戦である)。

そして5人目の『貴花田』であるが、これも魁傑に近い理由だろう。

この4場所前に初優勝を果たし、その際三賞も『トリプル受賞』しているため、これ以上甘やかすわけにはいかないといったところだろう。

そして最後が上記の通り『逸ノ城』である。

 

勝手ながら『不運順位』をつけるならば

北の湖>琴富士>逸ノ城>清國>魁傑=貴花田

といった感じであり、北の湖は群を抜いて不運といえる。

そもそも関脇以下で14勝以上を挙げるのはやはり稀である。

1場所に複数名存在したことはないし、単純に1場所あたりの割合を計算すれば0.049であり、低確率である(全367場所中18人)。

昇進問題もそうだが、三賞受賞も『時代背景』が必ず問題となってくる。

2004年~2011年頃、朝青龍白鵬が全盛期の時代においては、この最強横綱を倒す力士が少ないため、結果として殊勲賞の受賞回数が軒並み減少する事態へと陥った。

2009年は年6場所で『殊勲賞受賞者なし』となった。

言い換えれば『白鵬を倒して勝ち越せば殊勲賞受賞』という暗黙の了解も出来つつあるが、ここでも不運な力士が逸ノ城である。

逸ノ城白鵬に2回勝利しており、その場所はいずれも勝ち越しているが殊勲賞は受賞できずに終わっている。

その背景には、その2場所において白鵬は11勝しか果たしていないというものがある。

『時代背景』『場所の流れ』

この2つをうまく味方に付けなければ、三賞受賞は難しいのである。

 

『令和時代』

三賞を獲得する力士はどのような顔ぶれとなるだろうか。